創業ストーリー

創業のころ

当社は、1936年(昭和11年)大阪市東淀川区で「杉野クリーナー製作所」として、杉野林平が創業しました。そこで、我が国最初の「チューブクリーナ」を開発し、製造販売を開始したのです。
これは、ボイラや熱交換器などの管内に付着したスケール(堆積物)を取り除くためのカッターなどをクラスター状工具の先端に付けて回転させるもので、メンテナンスのための必需品として世に出したものです。
当時、チューブクリーナは英国からの輸入品に依存していました。満州事変以後、日本は国際連盟からも脱退するなどし、その経済的圧力の中で金属・機械工業も自立する必要があった背景から、創主林平は、国産品の開発に踏み切ったといいます。

創主・杉野林平

不撓不屈の精神

創主杉野林平は、下新川郡本江村(現魚津市本江)で、父長之助、母キクの三男として生まれました。
1901(明治34)年、魚津中学校に入学して間もなく両親を亡くし、新天地開拓のため北海道へ移住。悲しさと貧しさの日々の中でも、強い気持ちで何事にも取り組み、その後、軍隊に入ってもまじめに訓練に励むことで功績が認められ賞を受けました。つらく苦しいときでも自分の力を出して精一杯生きようとする人でした。

「杉野クリーナー製作所」創業と発明意欲

1912(明治45)年、24歳のとき、軍隊から戻った林平は大阪のゴム製造所に就職しました。4年後、ゴム製作所を立ち上げ独立しましたが、景気が悪くなり、工場は閉鎖に追い込まれました。
1936(昭和11)年、48歳のとき、大阪で自ら考案した水圧・空圧のチューブクリーナ製作販売のため、従業員5名、20坪足らずの「杉野クリーナー製作所」を創業し、国産初のチューブクリーナを世に出すこととなりました。これがスギノマシンの始まりです。
林平がこれまで発明して認められた特許は31件。創意工夫により、クリーナーに関する多くの発明考案を成し遂げ、産業界に貢献した林平は、1959(昭和34)年、永年発明功労者として、紫綬褒章を受章しました。
クリーナー以外の発明考案にも注力し、卓上冷蔵庫、疑餌釣針、窓拭器、羽毛装身具など、病床にあってなお続けていたといいます。

熱意と親切

創業当時、林平は自身でクリーナーを担ぎ全国行脚し、売り込んでいきました。こんな話があります。あるお客様の話です。

その方は,林平が新しいクリーナーを売りに来た時に対面しました。他所のクリーナーを使っていたため、杉野のクリーナーの素晴らしさを熱弁されても実際にはわかりません。

そう言われた林平は、すぐに服を脱ぎ、もらったボロで褌をして実際にボイラの中に入り持参したクリーナーで掃除を始めました。煤で真っ黒になり、ズブ濡れの林平を見て、その方はその熱意に感動し、「商売もあれだけの自信と熱意があれば必ず成功する」と言ったそうです。

また、創業当時の従業員によると、林平の書いた設計図はとても丁寧で、「究極まで考えた細かい心遣いがあり過ぎる」ほどでした。品質への責任感も並大抵でなく、クリーナーの主要部分の材料はまだ国産化されていなかったニッケルクローム鋼、高速度鋼、ステンレス鋼が使用されており、「舶来品の好きな親父さん」と材料屋、工具屋仲間で評判があったくらいです。

どんな小さなことでも最善を尽くし一生懸命な姿勢は、当時の商品にも表れています。クリーナーには、電話番号が刻印されていました。お客様が使用中に、すぐに問合せができるようにとの心遣いでした。

自分で真剣に考えたものを、魂を込めて造り、本当のサービス精神を持って売るというメーカーとしての基本的な考え方、心は今も受け継ぐべきものとして、当社の理念に込められています。

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